ボヘミアン・ラプソディ

体感する映画だった。

Queen世代ではないが、知っている曲、なんとなく聞いたことがある曲あ満載だ。

しかし、あそこまで壮絶な人生だとは知らなかった。

マーキュリー自身が常に全力で戦い、自分に正直な人だった。

だから、彼は多くの人に愛されたのだろう。

興行収入が5週連続で右肩上がりに上がっていくという異常なほど熱狂されている映画。

ファンのみならず、今の時代を生きている若者たちにも響く映画だ。

「我々は何者なのか?」という問いと、「誰かに愛されているのだろうか」という不安。

そんな誰もが一度は胸に問いただしたことあるだろう。

マーキュリーは、常に自分自身に問う。

だからこそ、完成豊かな名曲が生まれたのだ。

 

あと、マーキュリーを支えるQueenのメンバーと恋人たち。

「家族だ」

と言われる人たちが、マーキュリーの力を最大限に引き出させた。

そこにはほっとした。

一人ひとりが天才で、才能あふれるメンバーたち。

だから唯一無二のバンド「Queen」があるのだ。

 

自分自身もこの映画を見て、正直に生きたいと思った。

理解者は、必ずついてくる。

私は天才ではないが、理解してくれる人と、愛せる人、精神を捧げたくなるような仕事さえあれば幸せなのだ。

 

マーキュリーも最後は、マイホームに戻った。

人生はシンプルなのかもしれない。

 

 

そんな夜更けにバナナかよ

 

体は不自由 心は自由!

主人公の鹿野さんは、「人生を我儘に生きた男」でした。

 

彼は障害者だ。

障害者という言葉は何だろうか?

誰が誰に対して「障害」なのか?

誰が劣っていて、誰が優れているのか?

障害者が自分に我儘に生きるということがどういう意味か?

 

 

彼が我儘と言われるには理由がある。

いわゆる障害者が求めること以上の「自由」を「主張」する。

 

彼の「我儘」に巻き込まれた人はたまったもんじゃない。

人手が足りないと呼び出され、昼夜問わず次々にオーダーされ、しかも、そこにはお金は全く発生しない。

 

「こんな夜更けにバナナかよ」

普通の障害者であれば、我慢するだろう。

しかし、鹿野さんは我慢しない。皆がどんな表情をするのか知っている癖に、口に出すのだ。

「食べないと寝れない」

夜中はバナナをボランティアは鹿野さんの我儘の為に探す。

 

ボランティアは、時間や労働時間を鹿野さんに尽くす。

その関係は、「やってあげている」という一方通行が普通だ。

誰もが大きな感謝を期待するが、彼は「俺たちは平等だ」繰り返し主張する。

「辞めたければ、やめて」

 

だが、彼の周りには絶えず人が消えなかった。

 

壮絶な苦しみや葛藤が周りの人にも鹿野さんにもあったはずだ。

当たり前の自分の意志を伝えるだけで、たくさん傷ついただろう。

嫌みを言われ、障害者は障害者らしくしろと幾度と言われたこともあっただろう。

鹿野さんは、「傷ついても、傷ついても」人と関わることをやめなかった。

ここが凄いと思った。

 

自分の意志を全身全霊で伝える。

その裏には、人を信頼し、こよなく愛す力が備わっていたのかもしれない。

だから、彼は多くの人の心を動かした。

 

入り口はボランティアだが、彼を中心にして、一つの家族を作り出した。

「鹿野ファミリー」

彼らは、鹿野さんが亡くなり16年経った今でも交流しているという。

単純にうらやましいと思った。

こんな関係の友人は、私に何人いるだろうか・・・?

 

 

本編では描かれていなかったが、ボランティアのベテラン3名、萩原聖人渡辺真起子宇野祥平さんの気持ちも知りたかった。

大学生という自由時間が溢れ、若き体力もある彼らがするのは分かる。

しかし、家族や仕事もあるベテランスタッフは、なぜずっと鹿野さんに寄り添っているのか?

そこは聞きたかった。

あと、本当はお金事情も知りたいところでした。

幾度となく出かけたり、パーティーをしていた費用は、どこにあるのか?

障害者が自活するっていうだけで、お金がかかりそうなイメージがある。

映画は程よく綺麗に描かれていたが、その二つはそうそうに思い浮かぶ現実なので、触れて欲しかった。そこは、脚本が残念でした。

 

私も我儘に、自由に生きてみたいと思った。

その分、人の我儘にも付き合ってあげれる余裕をもつ。

そのためには、傷ついても、人を心から信頼し、愛す。

単純だけど、これが意外と難しいことかな。

 

 

脚本:橋本裕志

監督:前田哲

配給:松竹